工事現場監督時代
工事現場監督時代
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入社5年目~9年目までの実際に製造現場に出てヘルメットをかぶって工事を行う工事現場監督時代の話をします。
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25歳まではオフィスに通ってパソコンをカタカタいわして1日が終わるというサラリーをもらうサラリーマンでしたが、
25歳に無断欠勤してから工事部に移ってからは工事現場で体を動かすドカタの人間になりました。
会社が建設業なので、工事現場に出てヘルメットをかぶって実際に物を作る現場の監督をするというものです。
でも27歳くらいまでは、人手が足りない時にちょいちょい現場に行って手助けをするちょい役みたいな感じでしたが、
28歳~29歳は本格的に工事現場に出て毎日作業するようになりました。
工事現場で驚いたことは、人にちゃんと物事を説明しないで「その仕事やっておけ」と偉そうに言う人間が多いことです。
これは本当にひどかったですね。多分どの工事現場もあんな感じなんだろうと思いますけど、あんな教え方では人は育たないです。
あとは感情的に物事を言う人が多いということです。
仕事に自分の怒りの感情をぶちまけるのは仕事できないやつの典型な例と思っていましたが、工事現場ではほんのささいなことでも罵声を浴びせる人間が多いです。
そもそも会話が通じないのが一番きついですね。
私が「A=Bだから、Bを使えばCにもAの長さが使えるね」というような筋道立てて話をしても、それを理解できない人が多いんで会話が成立しないことが多かったです。
具体的には、アホな上司が「わからなければ聞いてくれないとこっちも答えようが無い」ということを言うのですが、
何もわからない初心者はまず最初に一通り教えてもらわないとどこがわからないかもわかりません。
例えると、アホな上司は「1+1= の問題やっておけよ」としか言わないわけです。
初心者は1の意味とか+という記号の意味とか=の記号の意味を知らないわけです。
だから初心者は1とはなんですか、+とはなんですか、=とはなんですかという3つのことをいちいち聞かないといけないわけです。
だったら最初から全て教えておけば、そっちの方がやりとりを行う時間も減って圧倒的に時間がかからないわけです。
さらに何も教えないと初心者側は3つのことを聞くハメになるので質問の量がとても膨大になります。
量が膨大になるので「わからないことは聞け」と言うクセに途中で「少しは自分で考えろ」「自分で調べろ」とか言い出します。
それで、最初に全てを教えないことで上のような状態になるということを筋道立てて話をしても理解を全くできないアホなので、会話のしようがなかったですね。
みんなまず教科書で基本を学ぶから新たな疑問が浮かんでくるわけで、教科書も無しに「はい、やってください」というやり方がおかしいのは明白です。
それを言うと、「でも工事現場では一から教えてるところなんてないよ」とかとても偉そうに言ってくるわけですが、本当にバカな回答だと思います。
「工事現場では一から教えてるところが無いから、うちの会社も一から教えないのは問題ない」と言っているわけです。
そういう悪い点を少しずつ直していくことが会社の発展につながるのにそれを放棄した発言なので、こういうアホが向こう何十年上司の立場を取っていくのでダメな会社に本当に変わっていくと思います。
で、それもそのはず、そのアホは高卒でしかも高校時代はヤンキーみたいな勉強をしてこなかった反社会勢力みたいな人間なので、
高校時代に学年で17位の成績の言ってる人間の言うことは理解できないということです。
自分の過去の悪事を武勇伝みたいに語るので、こいつ人間としてダメだなと常日頃思っていました。
ちなみにサラリーマン時代に私の説明の仕方で理解できないという人は1人もいませんでした。
ドカタの世界では理解できない人が本当に多いのでびっくりしました。
さらに会話の内容が風俗、パチンコ、車の絶対どれかで、いつもその話しかしません。
サラリーマン時代だったら社内で当たり前のように風俗の話をするなんて言語道断な行為でしょう。
だから世の中でドカタのことを「チンパンジー」とか軽蔑するような呼び方で呼ぶ人が結構いますが、本当にその通りなのでドカタの人間はそれを受け入れて聞くしかないですね。
そして29歳の時に行った愛知の工事現場で今までで一番最悪な上司に当たってしまいました。
人を奴隷としてしか見ていないような本当に人間のクズで毎日嫌味と罵声を1日2時間以上言われながらYESしか言わずに耐えて仕事をしましたが、怒りのピークに達して荷物をまとめて現場から勝手に脱出しました。
基本的に仕事以外の会話はゼロで、上司側から趣味の話とか出身の話とかを聞いてくることは一切ありませんでしたので奴隷が欲しいだけなんだなと最初に会った時点でわかりました。
YESしか言わせないように毎日罵声を浴びせられていたので、時には「2万貸してくれない?パチンコ行ってくるわ」とかお金をせびられたりとかもしましたし、
飲み会をやると言っておきながら移動手段が無いからお前はお酒飲まないで運転手をやれというようなこととかもありました。
それはもう懇親会とかではなくただの深夜0時までの運転手としての残業でした。
ちょうど1ヵ月くらいで生きている意味がわからなくなったので、もういいかな、こんな生き方意味ないから死のうかななんて思うようにもなりましたが、
死ぬくらいなら当然に会社なんか辞めようと思って人生2回目の無断欠勤をしました。
さすがに2回目なのでもう会社には確実には居られないなというのはこの時思いました。
工事現場に出るのは5回目くらいですが、そのうち4回は現場のアホと喧嘩して帰ってきているので今回の現場でダメだったらもうダメだねみたいなことを言われてたので会社を辞めることは確実だと思いました。
で、会社に帰って上のような事実を言っても部長は聞く耳持たずの俺が悪いと決めつけて話す人間なので、会話することをやめました。
現場監督として働いている時は手取りで50万円というすごい金額の給料をもらっていましたが、アホと毎日顔を合わせるのは苦痛を極めるし、なにしろ私が重要視している力の使い方を間違えていると常々思っていました。
もちろん、そのまま手取り50万円の生活を続けていけば今後絶対にお金に困らないだろうし間違いではない生き方だと思います。
しかし、ある程度お金が貯まって金銭的な余裕が出てくるとどうしても自分が本当にやりたいことをやるべきなのではという気持ちになってきます。
そんな不安定な気持ちの中で辞めるきっかけが出てきたので、後のことは一切考えずに会社を辞めることにしました。
いずれ会社を辞めても大丈夫なように22歳くらいから29歳まで7年間不労所得作りをずっと模索してきましたが、とうとうちゃんとした金額の不労所得を作れないまま、退職という結果になってしまいました。
ホームページを継続して作ってきてから4年くらい経つのですが、結果としては月に安定して1万円程度の不労所得が手に入るようになりました。
しかし、これでは生活ができないのでお小遣い程度のものです。
(でも、この1万円が未来への糧になると思うと、心が震えるほどありがたいと思いますが)
元々はホームページで月に安定して15万円くらい稼げるようになったら脱サラして自分が生きたいように生きようと決めていたのですが、
15万円に全然行かずに、鳴かず飛ばずで今は月1万円という感じです。
2年くらいさかのぼって、26歳くらいの時に伝統工芸品の江戸切子というカットグラスにえらい感動しまして、26歳~28歳の間は江戸切子の製作教室に通っていて、
退職後は江戸切子の職人を目指そうかなと思いました。
また、現場を無断欠勤した時になんとなく海を見にいったのですが、本当にその風景がきれいに見えて、こういう綺麗な風景を写真で撮り続けて生きたいとも思いました。
なので、風景写真家として生きられるかという道も少し考えてみました。
現場を無断欠勤して、その情報が工事部長と部長をまとめる本部長の耳にも入って両方から電話がかかってきました。
部長は前に人の話を一切聞いてくれない人間の心がわからない人と思っていたので、その通りの厳しい言葉を言い放ち、私が現場でどういう扱いを受けていたかなんか一切聞いてくれませんでした。
本部長の方は「もうその現場居られないならさ、1回帰って来いよ」と言いました。
ひどく言われると思っていましたが、多くは語らずとも優しい気遣いのある言葉でびっくりしました。
その本部長は元々は工事部長でその時も理解のある人だったので助け舟そのものでした。
言葉の通り、愛知の現場から東京の事務所に戻ることにしました。
「退職の申し出」に続く。
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